09/23/2025
#忘れられない夏にする

 ずいぶん涼しくなってきた。半袖だと夜は寒いくらいだ。ふとカレンダーを見ると二〇二五年/九月とある。まるで夢のようだ。二〇二五年……そんな年が本当に存在するなんて考えたこともなかった。古いSF小説ならちょうど主人公が冷凍睡眠から目覚めて初恋相手の孫と恋をしている頃だろう。どうやら俺はこの世界の主人公ではないので冷凍されたりはしていないが、それでも何とかかんとかファーストアルバムを発表し、夏じゅうをかけて周ったリリースツアーも無事終え、次作の制作を急かされながらとりあえず毎日だらだらしている今が俺にとっての二〇二五年/九月であることにはそれなりに満足している。科学で越えなくても、未来は来るし、夏は終わっていくようです。

 そういえば仲間内のあいだで「忘れられない夏にする」というテーマというか標語というか合言葉というか悪ふざけみたいなものが今年の夏の通奏低音としてあって、改めて説明するとアホくさくて泣けてくるがたとえば「飲みに行こう」の代わりに「忘れられない夏にしようぜ」と言って居酒屋に集まったし、「じゃあまたね~」の代わりに「忘れられない夏にしような~」と言い合って家路についたし、他にも「忘れられない夏にするんじゃなかったのか!」と言って三次会への参加を強要したり、もはや「忘れろ!」と言いながら一気飲みを煽ったり、これは別に忘れるとか関係ないがシンプルに複数人で男性器を露出しながら踊りまくって大好きな店を出禁になったりしていた。実際に今年の夏を忘れないのかどうかは忘れうるだけの時間が経ってみないとわからないし、何なら今の段階で既にかなり忘れてしまっている気もするが、肝心なのはそのような気概で夏に臨むという姿勢そのものであって実際に忘れてしまうかどうかはあまり問題ではないことは言うまでもない。夏という季節には何故かそういう不思議な感覚を引き寄せる魔法があって、それはたとえば「忘れられない春にしよう」とか「忘れられない冬にする」といった言葉があまり魅力的なテーマとして成立しそうにないことからもわかる。それはつまり夏にはどこか記憶の彼方に消え入ってしまいそうな儚さがあるということかもしれないし、あるいは、春の記憶も冬の記憶も等しく消えてしまうとしても、夏に起こる類の出来事だけはどうにか忘れたくない、といった問題かもしれない。俺には何もわからない。そして、わからないのが夏の良さでもある。すべて手に取るようにわかるようなものを、人は好きになったりしないものだ。

 ────こうして夏の話をしていると「ぼく/わたし、夏ニガテなんだよね……」とかなんとか聞いてもないのに宣言しはじめる輩(やから)が一定の割合で必ずいる。そういう奴らはおしなべてそういう一歩引いたダウナーな自分のことをカッコいいと思っているだけの恥ずべきナード野郎どもで、それならどの季節をご所望ですかと尋ねてやるとたいてい秋と答えるかさもなくば冬服が好きだから冬が好きとか訳の分らんことをのたまうのがお定まりのパターンである。春が好きだと言うと夏とはまた別の意味でアホっぽいから嫌なのだろう。その発想がアホである。だいたい「冬服が好き」というのはもはや冬が好きなのではなく服が好きなだけであることはもはや言うまでもあるまい。ある季節をとらえるということは、服、とか、気温、とかそんな“点”をつかまえることではなく、理によって整然と石を並べていく碁のように、あるいは果てなき想像力によって星と星を星座につなぐように、いわば“線”によってその季節の中にあなた自身の姿をかたどっていく営みだからだ。要するに簡単に言うとお前たちのようなウンコ(大便)に夏を語る資格はないということで、俺がシュワルツェネガーだったらお前とはとっくの昔にアスタ・ラ・ビスタ、ベイビーだということである。ついでに言っとくとお前ら(ウンコ)がしきりに言ってる秋ってのは、今この時期なら体感でわかることだと思うが結局のところ夏のアウトロのことを指しているに過ぎないんだよ。まぁそれを言い出したら冬のイントロとも言えてしまうかもしれないし春は夏のイントロじゃないのかとかいう話になってくるかもしれんがお前らのそんな屁理屈にいちいち付き合っている時間はない!!!!!!!!!いまは俺が喋る時間だから!!!!!!!!静かにして!!!!!!!!!!!ほんとうに君たちの屁理屈には心底うんざりしています。切実に。とはいえ(とはいえ?)、「今年は秋があんまりなかったねぇ」といった言葉が毎年ささやかれることからもわかるように、秋という季節はその短さゆえか、はたまた先述した“夏のアウトロ感”ゆえか、刻一刻と過ぎ去ってゆく時間のこの一瞬、一瞬をまざまざと惜しみ味わうための補助線のような役割を演じてみせることがあるのは事実であり、その無常がこの瞬間、瞬間を再帰的に秋たらしめているのかもしれない、という実態をひとまず諒解すれば、暖かい春だって暑い夏だって厳しく寒い冬だってやはり同じ速度で過ぎ去る風なのだということが端的に類推できるはずである────それはつまり、ひとつの夏がすごい速さで過ぎ去るとき、次の夏がやはり同じ速度で我々に迫っているということでもある。いったい来年はどんな夏になるだろう。再来年は?その次は?あるいはもっと、ずーっと未来、たとえば二〇七五年の夏、俺は何をしているだろう?それを知るために科学に頼る必要はない。ぜんぶ忘れずに、ただ進めばいいだけだ。たとえいつか、何もかも忘れてしまうのだとしても。